20231115

introduction

清水宏、映画の野生児

岡田秀則(国立映画アーカイブ主任研究員)


「僕とか小津君は努力派だが、清水君は天才だ」と言ったのは溝口健二である。その意味するところは、『小原庄助さん』(1948)で清水の助監督だった石井輝男の回想からも分かるだろう。「清水さんというのは俳優と一言も口を利かなくて、自分でアクションもつけないし、自分で「ヨーイ、スタート」も言わない。ダビングも編集もしないんです。現場にホン(台本)も持ってこない。ワンカットごと助監督のホンを見て、キャメラ・ポジションを決める。構図だけはキャメラマンに任せないで、自分で決めるんですね」。それでも私たちは、その多くの作品の中に清水らしさの刻印をはっきり認めることができる。

清水が松竹蒲田撮影所に入所したのは1922年のことである。そこではすでに成瀬巳喜男が監督助手として働いており、翌年には小津安二郎が入社してきたが、清水と小津は直ちに友情で結ばれた。無声映画時代の清水は優れたメロドラマを連発して会社を潤していたが、興行成績の振るわない小津作品に対する会社側の不満に対して、清水は「小津はあれでいい。儲かる映画は俺が作る」と言って小津をかばったという。松竹の撮影所は1936年に蒲田から大船に移転し、製作規模を拡大してゆくが、第二次大戦での日本の敗戦を境に、清水が自主製作を目指して松竹を去るまで、二人は誰もが認める撮影所のライバルだった。

しかし清水の映画は、海外はおろか、日本でも長い間正当な評価を得ることができなかった。その理由のひとつは、戦後の彼が困難な自主製作に取り組み、それに挫折した晩年、大手スタジオのプログラム・ピクチャーの演出に甘んじたことがある。それは、小津や成瀬が巨匠の座にのぼってゆくのとは対照的な道のりであった。生涯に164本の作品を残して、1966年にひっそりと亡くなった彼の仕事が再評価されるには、1990年代を待たねばならない。小津と清水、両者の映画の常連俳優だった笠智衆は、小津映画の高い評価に対して、清水映画がきちんと評価されていないことを晩年になっても嘆いていた。

清水は、撮影所で育つ監督たちの多くが避けてきたことを意図的に取り入れた。とりわけそのキーワードとなるのは《旅》と《子供》だろう。《旅》とは、単に彼が田舎の風景を愛したということではなく、撮影所を離れて自然の中にキャメラを持ち出すことを意味している。『花形選手』(1937)における行軍訓練のシーンなど、清水の手にかかるとピクニックと見紛うほどの空気をまとっている。清水は撮影所内での地位を確立するにつれて、小津や他の監督たちとは対照的に、屋内でのドラマを排してロケーション撮影に傾倒した。彼は自然の風景をフィルムに収める時、フィクションとしての構造の中にそれをはめ込むのではなく、むしろ、ありのままの自然の中に俳優たちを放り込むことを好んだ。それらの作品が持つ伸びやかで大らかな空気は、しばしば即興的に映画を築き上げる清水独特のものである。

また《子供》を映画の中央に据えたことも、撮影所にいながらにして「プロフェッショナル」な演技に頼ることをやめた清水の帰結である。例えば『みかへりの塔』(1941)では、風景の中に子供たちを捉える時、清水の世界は最も充実した瞬間を迎えるだろう。そして大戦後の彼は、戦争孤児を引き取って「蜂の巣」という家を運営し、その子供たちを主演俳優として映画を撮るという世界的にも前例のない実験に取り組み、『蜂の巣の子供たち』(1948)、『その後の蜂の巣の子供たち』(1951)、『大仏さまと子供たち』(1952)という三本の傑作を残した。それらの出演者には、子供たち以外でも、プロフェッショナルの俳優は一人もいない。さらに、障害者や社会的弱者、被差別者に注ぐ視線の存在も、そのフィルモグラフィをたどれば明らかだ。『有りがたうさん』(1936)における、道路工事に従事する在日朝鮮人への共感は当時の日本映画としては極めて珍しい。

いわば野生児だった清水宏は、批評的な視点を持ち合わせて映画を作る人間ではなかった。しかし、他人の通らない道を歩むことで、当時の日本映画に対する無意識の批判を実践していたように思われてならない。それはあまりにも早すぎた、たったひとりの《ヌーヴェル・ヴァーグ》だったのかも知れない。この2020年が、この例外的な映画作家がフランスで、そしてさらに世界的な規模で発見される機会になることを切に願っている。



パンデミックにともなう延期を経て、2021年にシネマテーク・フランセーズおよびパリ日本文化会館で清水宏回顧上映が開催された。本稿は、それに際して発行された書籍Hiroshi Shimizu : l’enfant sauvage du cinémaに収録されたものである。